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思い出の城東貨物線
column#03◆少年の時代


やがて小学校を卒業中学生となる。小生の方は徐々に成長していったが、
城東貨物線の方はいっこうに進化する気配無く十年一日のごとく蒸気機関車が走り続けていた。

しかし、この頃から遊び場ではなく貨物線本来の鉄道としての興味を持ち始めた。
まず最初に気付いたのは機関車の種類である。今まで何気なく見ていた機関車も
よく見ればいろんな種類(形式)があるのが判り出した。

当時は、8620、9600、C11、C58、D51、が主力であり後になってD52、D62が登場した。
それと同時に機関車にも所属先があることも判った。「竜」「吹」である。

折から日本は戦後の復興期、物流の主役を担った貨物列車はそれこそ夜となく昼と無く日本国中縦横に駆け巡っていた。
城東貨物線も単線にもかかわらずかなりの本数の列車が深夜まで行き来していた。
当時南下する貨物列車の行き先は、淀川、放出、湊町、浪速、玉造、大阪港の各貨物駅、
更に龍華操車場を経て関西線、紀勢線へと通じていた。

南行列車が通過して程なく北行列車が来るのを不思議に思ったこともあったが
都島に信号所があると知ったのはずっと後になってから。
特に小生の近辺は地盤が弱かったのか列車が近づくと家がゴトゴトとよく揺れ、
地震と間違え夜中に飛び起きたことも度々であった。

それと蒸気機関車しか通らないはずなのに何故か架線が張ってあるのを不思議に思ったのもこの頃である。
ある時空っぽの電車が通っているのを見てびっくりしたが、何故ここを電車が通るのか理解できなかった。
淀川電車区から吹田工場への入出場の回送であると判ったのはこれまたずっと後になってからである。

この頃にはもう線路敷きは遊び場でなくなっていたが、遠くを見たい時によく築堤の上に登った。
特に消防自動車でも通ろうものなら火事はいずこと老若男女を問わず一斉に駆け上がったものでだ。
時代にして昭和30年代中頃までのことである。当時は高い建物もなくかなり遠くまで見渡せたものだが、
引越し直前に何年振りかに上ってみると高層マンションが林立し少年の頃に見た風景とはすっかり様変わりしていた。

〜つづく〜
文/元沿線住民さん 写真/I.Oさん


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