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思い出の城東貨物線
column#02◆学童の時代


疎開により途切れていた城東貨物線との付き合いが再度始まるのは小学校へ入学した頃である。
戦争が終わり間もなく疎開先から帰ってくるのだが、何故か入学する頃迄の記憶は殆どない。
小生が通った大阪市立菅原小学校もやはり貨物線のすぐ傍にあり、
授業中や通学途中に頻繁に行き交う貨物列車をいやがおうでも見ることが出来た。

しかし、この頃の貨物線の思い出は鉄道としてよりも遊び場としての方が遥かに強い。
我々の子供の頃はとにかくよく遊んだ。学校から帰るやいなやランドセルをほっぽりだし
貨物線の敷地へ向かっていくのが日課だった。

かつて防空壕があった所はおりからの食糧難を反映して家庭菜園に様変わりしていたが、
その中を近所の幼馴染と群がって、鬼ごっこ、かくれんぼ、
はたまたトンボや蝶々取りなど暗くなるまでしていたものだ。
当時は線路敷地と道路の境界はあやふやで柵等は何もなく出入り自由であった。

その合間に汽車が通ると遊びはいったん中断、機関士や機関助手に一生懸命手を振り、
ワム、トム、トラ等が連なった貨車の両数を1だ〜い2だ〜い3だ〜いと声を上げて数え、
最後尾の車掌車に車掌の姿が見えると又手を振ったりしていた。

余談ではあるがこの頃、貨物線に面したとある家に白人系の混血幼女が住んでいた。
混血ではあるがその容貌はむしろ白人に近く、赤茶色の髪にブルーの瞳、
その色白の肌は当時の薄汚い同年代の子供に比べ一際異彩を放っていた。
何故そのような子がそこにいるのかその時には判らなかったが、
あとになって進駐軍兵士との間に生まれた子だと知った。

年の頃は小生より3歳位年下で遊び盛りであるのはその子にとっても同じ事、
何とか我々の群れの中に入ってこようとするのだが、その様な子供は今迄見たことも無く、
まるでお化けでも見るように避けまくり事あるごとに「合いの子合いの子」と
皆ではやしたてては泣かせていた。

その子もいつの頃からか居なくなったがもし健在ならもういいオバさんになっているはず。
思い出すたび何故あの時一緒に遊んでやらなかったのかと悔やんでならない。

〜つづく〜
文/元沿線住民さん 写真/I.Oさん


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