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思い出の城東貨物線
column#01◆幼児の時代


小生が初めて城東貨物線を意識したのは3歳の半ば頃であろうか。年代にして昭和20年の初頭だった。
その頃の世相と言えば3年余り続いていた太平洋戦争が我が大日本帝国にとって敗戦必至の状況で、
アメリカが日本全土に爆弾の雨を降らすべく開発した空の要塞B29による空襲が激化しようとしていた頃である。
その空襲から身を守るべく隣組主導のもと防空壕を掘る事になったのだが、その場所が城東貨物線の敷地だったのである。

城東貨物線の吹田〜放出間は複線の用地が確保されており、ガード、橋脚、鉄橋等は最初から複線仕様で建設されていた。
しかし、実際には線路は単線しか敷設されておらず用地の半分は遊んでいたのでそこに防空壕を掘ったわけである。
そしてひとたび空襲警報発令となると取るものも取り敢えずそれっとばかりその防空壕へ逃げ込むわけだが、
そんなある日、逃げ込む途中で築堤の上をガチャコンガチャコンと音をたてて蒸気機関車が通りすぎていくの見たのが最初である。

特に線路を挟んだ反対側の少し吹田寄りに大きな軍需工場があり(現在の延原倉庫)、
その屋上にある特大のサイレンが敵機接近となると大音響で吹き鳴らされていた。恐怖の空襲警報発令である。
その不気味さは3歳半ばの幼児にとってとても堪えられるものではなく、サイレンが鳴るたび泣きじゃくっていたのを強烈に憶えている。
その恐怖心があったればこそ今でも鮮明に憶えていられるのであろう。
しかし間もなく空襲を避ける為岐阜県の山奥へ疎開したので、貨物線との付き合いはそこで一旦途切れることになる。

〜つづく〜
文/元沿線住民さん 写真/I.Oさん


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